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時計屋のひとりごと 第6回

 

腕時計のはじまりは?

1.ボーア戦争

腕時計のはじまりは ボーア戦争といわれておりますが実際には
どうでしょうか 先日 新聞で
「腕時計の誕生」作者 永瀬 唯 
廣済堂出版の 本が 紹介されていました。
前から 気になっていたことなので 即 本屋さんに 走り
早速読んでみました。みなさんも 何かの雑誌で 読まれたと
思いますが ボーア戦争で兵士が 懐中時計では 不便で
なんとか 懐中時計を 腕につける工夫したのが 始まりだと
思っていました。実際1965年 上野益男著 「時計の話」
には
「イギリス軍将校の一人が、肩紐やベルトでがんじがらめに
縛られたような軍装のポケットから片手で懐中時計を取り出す
不自由さにかんしゃくを起こしていた。時計屋出身の彼は、
ポケット・ウオッチのケースの胴に皮バンドを通す針金を溶接して
皮バンドで手首に巻きつけることを考えついた。彼が作った12
サイズのちょうど腕の太さ一杯もあるような大型腕時計が
おしらく実用上の必要が生んだ腕時計第1号であろう。
彼の考案が従軍中の兵士たちの間に流行して、改造ケースの
腕時計が次々と作られたらしい。
南阿戦争が終わったとき、兵士たち 持ち帰った流行が
一般市民の間にひろがりはじめた。」
とある。
1899年に始まったボーア戦争においてのこととされている。
果たして 腕時計は この時期に 誕生したのだろうか?

2.ウオッチブレスレッドと腕時計は違うのでは?

腕時計とは、文字盤をガラス越しに常に読み取れること。
ウオッチブレスレッドは蓋を開けて初めて文字盤をみることができるのは
(装飾の一部と考えられないだろうか)
時計としての機能はあくまで付録にすぎないのでは
こう考えると ウオッチブレスレッドは あくまでもブレスでは。

 

1790年 ジャケドロー ブレスレッド上に固定したウオッチを販売したとの記録が残っている。
ブレス自体は鎖を織った広い形の物 2列に並んだダークブルーの
エメラルドが飾られたという。蓋つきかどうかは定かではない
1806年 ニトー(宝石商) 針を直接見ることの出来るタイプペアウオッチ これは片方は時計もう
もう片方はカレンダーが装着されている これは巻きカギを用いられる
必要がある上、文字盤の位置に問題があり、腕を立てなければ時刻を読み取る
ことが出来ない

1863年
1873年

パテック・フィリップ パテック・フィリップ社の記録に 63年と73年の2度に渡ってウオッチブレスレッド
が 試作されたというが リュウズはまだなく巻きカギ式の上に、ストラップも
バングル・タイプで近代型腕時計の原型とはいいがたい存在だった。
     

 

3.近代腕時計の出現(実用腕時計)

1880年、スイス時計産業の中心、ラ・ショー・ド・フォンの時計メーカー
ジラール・ペルゴは ドイツ海軍からの注文にもとづき、士官用に多数の
腕時計を製造した。残された資料は、GPに保存されていた伝票1枚のみで
精確な受注・製造の日付についてもはっきりとはわからないが 1880年か
それ以前にかなり多数がつくられたことは間違いない。
GPに残る伝票によれば10号から12号サイズのムーブメントを用いており
オープンフェース型でチェーン型のブレスレッドに連結されいた。

「腕時計の誕生」 女と戦士たちのサイボーグ・ファッション史
永瀬 唯 著 廣済堂出版  より

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時計屋のひとりごと 第5回

IWCの時計学校


1968年 IWCは創立100周年を記念して独自の時計学校を創立しました。

クオーツが市場を独占し、スイス時計が危機的状況に陥った70年代、

時計学校の存在の意味を問われたこともあったが、存続を決めこれが現在の

IWCの大きな力となっている。

時計学校はIWCの工場の一室にある。1学年4人、計16人の生徒がここで

技術を学んでいる16歳から20歳までで 現在10人が男子、6人が女子。

入学するにあたっては、中学校卒業前の 1週間、体験コースに入り、適正が

判断され 4人が入学を許可される。そして4年間、カリキュラムに従って

機械式およびクオーツの時計構造、修理について学ぶことになる。

授業はAM8:00から11:30までPM2:00から4:30までの1日5時間半。

彼らはここで授業を受けるのと並行して、週2日ソロトウルンにある

時計学校で総合的な職業訓練を受けなければならない。

彼らのファイルされたノートは克明な図と説明でびっしりと埋まっている。

生徒たちにはひとつの義務が課せられる。これが週に1回、提出しなければ

ならないこのノート。1週間に学んだことを図解入りで詳細を記するもので

成績判断の主要な材料となる。彼らは真剣に学んでいることがそのまま

表されている。いままでに一人として落伍者がでていない。

卒業後はIWCで働く義務はないが他社に就職しても 戻ってくるひとが多い。

生徒たちのなかでも親父も時計師という例は希。

初めて時計の機械に触れる彼らだが、工具作りから、始まり、4年後には

クロノグラフや永久カレンダーの組み立て、アンティークの修理まで技術を

習得していく。授業料は無料で 逆に成績に応じて報酬を受ける。

生徒の腕には 皆 IWCの時計があり それぞれが自分で購入したもの

彼らの誇りに違いない。

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時計屋のひとりごと 第4回

ブレゲが発明したトウールビヨンのメカニズム


機械式時計には姿勢差がつきものである。この姿勢差は テンプ自体の

重心誤差(車でいえば ホイルバランス)や作動中のヒゲゼンマイの伸縮

によって起こる重心移動などに起因する。早い話、機械式時計は裏か表か

何時の位置が上になっているかといった「姿勢」の違いによって、時間の

精度に誤差が生じる。この解決策として いまから200年も昔、かの天才

時計師ブレゲが考案したのが「トウールビヨン」と呼ばれている機能である。

これは、テンプ アンクル ガンギ車といった脱進機と調速機をひとつの籠に

収めて輪列の最終歯車の上にそっくりのせ、時計の作動中に回転させること

によって姿勢差を相殺してしまおうという機構。

言われてみればなるほどすばらしいアイディアである。

いざ作ろうとしたとき 問題は機構が複雑になりどうしてもコストが上昇して

しまうこと また 立体的な構造になるため 薄型化が難しいことが

あげられる。

時代が進み ゼンマイの素材の改良や部品精度の向上などにより

トウールビヨン機構を用いなくとも実用上十分な時間精度を

確保することが可能となり この機構は時計師の腕を示す複雑機構の

一種となって 特殊なモデルあるいは ごく一部の高級時計に採用される

のみとなってしまった。

80年代にはいってからも 高級時計としての位置付けであったが

80年代の後半に始まる機械式時計の復興に伴ってこの奇妙な

しかし意味深い機構にスポットが当てられている。

今現在 時計の精度のために(機械式で) トウールビヨンを

求められる人はいるのでしょうか。そうは考えないのではないでしょうか。

トウールビヨンそれは いまとなっては ごく少数の時計師が

作ることのできる 芸術品と いってもいいのではないでしょうか

だから 憧れるのではないでしょうか。

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時計屋のひとりごと 第3回

 

均時差とは?

太陽に対する地球の公転軌道は、実は円ではなく、
左図の実線のように不規則な楕円をしている。そのため
実際の1日の長さ(真太陽時)は、1年を通じて23時間
44分から24時間15分の間で変化している。しかし、
これでは、あまりにも不便なので、便宜上、地球の公転
軌道を真円と仮定した場合の1日の長さ(24時間)を
平均太陽時として設定しているのである。
均時差とは、この平均太陽時と真太陽時との差を分単位
で表したもので、最大で-16分(11月3日)から+14分
(2月12日)の差が生じている。両者が一致するのは
図の2つの線が交わる4月16日、6月14日、9月1日、
12月25日の年4回だけ。 この均時差の時計をブレゲが
1790年代頃にはすでに、懐中時計に搭載さいされていた。文字盤には+15分から-15分までの
目盛りを記した均時差表示が装備されている。  
さすが ブレゲですね。

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時計屋のひとりごと 第2回

ブレゲの時代に革命暦が存在していた 1時間は100分?



グレゴリオ暦が世界の標準となるまでは、イラン暦や中国暦など
世界各地にさまざま暦法が存在していた。フランス革命時の

1791年に制定された革命暦(共和暦)もそのひとつ、

この革命暦は一ヶ月を30日として残りの5、6日を予備日とし、
一ヶ月は10日を1週間とする3週間で構成された。
また1日を10時間、1時間を100分とする
10進法時まで

制定されたが、これはさすがにややこしく なったのか

2年後には廃止されている。なにしろ時計職人にとっては

やっかいな話で、あのブレゲも10進法時計を10個ほど製造

したらしい。革命暦の方は 1806年まで続いていたが

結局浸透せず姿をけしました。

約15年間というのは わたしたちの 感覚とは

ずいぶん違った 時間を過ごしたのでしょうね。

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時計屋のひとりごと 第1回

ユリウス暦からグレゴリオ暦へ

現在、われわれが使用しているグレゴリオ暦のもとになったのは
いまから2000年以上前、紀元前45年前に制定されたユリウス暦
である。これはローマ帝国の独裁者ユリウス・カサエルが天文学者
に命じて作らせたもので彼の名前をとりユリウス暦と呼ばれた。
1年を365.25日として、現在の暦と同じく4年に1度閏年を設けること
で調整していた。しかし、実際の太陽年(地球が太陽の周りを一周
する時間)とは平均すると1年で11分ほどズレが生じることになる。
ユリウス暦は1000年以上も使われたため、しまいには無視できない
ほどの狂いが生じてきてしまった。
そこで1582年、ローマ法王グレゴリオ13世が復活際の日程を
正確にさせることを目的に改暦を実施した10日間を省略してそれまでの
ズレを調整し、1年を365.2425日で計算することを定めた。
こうして、現在のグレゴリオ暦が誕生したそうです。
グレゴリオ暦は400年に3回、閏年を省くことによって微調整
している。

ちなみに、なぜ2月だけが28日と少なく、閏月となってしまった
のだろうか? それはユリウス暦が定められた古代ローマでは
2月が1年の最後の月だったため、やむなく調整月にされて
しまったそうです。
そうすると 1年は(地球が太陽を1周する時間)
 365日5時間49分12秒ってことですよね。
「そういえば 閏秒って聞いたことあるんですよね?」

2000年も前に、よくココまで、(ユリオス暦)わかっていたとは
感激ものです。

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